指示する側と従う側だけでは説明しきれない、組織の「動き」の正体

「指示する人」と「従う人」だけで、組織は動いているのか?

会社という組織では、よく「指示する側」と「指示される側」という構図で物事が語られます。

 上司が指示を出し、部下がそれを実行する。リーダーが方向性を示し、メンバーがそれに従う。確かに、組織にはこうした関係があります。

 しかし、実際の職場を見ていると、それだけでは説明できないことがたくさんあります。誰かが明確に指示したわけではないのに、いつの間にかみんなが動き始めていた。何気ない雑談からアイデアが生まれ、それが気づけばプロジェクトになっていた。最初は乗り気ではなかった人が、周囲とのやり取りの中で、いつの間にか中心人物になっていた。

 逆に、「みんなで頑張ろう」と何度呼びかけても、なぜか誰も動かないこともあります。こうした現象を、「リーダーシップがある・ない」「本人にやる気がある・ない」という個人の問題だけで説明することに、私は少し違和感を感じています。

 組織の中では、「指示する人」と「従う人」という二つの立場だけでは説明しきれない、もっと複雑で、もっと人間的な「動き」が起きているのではないでしょうか。

「自分がやった」と「やらされた」の間にあるもの

 このことを考えるうえで、とても興味深いのが「中動態」という考え方です。

 私たちは普段、行動を「能動」と「受動」に分けて考えます。

「自分がやった」のか。それとも、「誰かにやらされた」のか。しかし、実際の人間の行動は、そんなにはっきり分けられるものではありません。

たとえば、新しいプロジェクトが始まったとします。社長が「やろう」と言ったから始まったように見えても、その背景には、お客様からの声があったかもしれません。現場の誰かが感じていた違和感があったかもしれない。何気ない会話がきっかけだったかもしれない。競合他社の動きや、社会の変化も影響しているでしょう。そう考えると、「社長が自分の意思だけで始めた」とも、「社員が社長にやらされた」とも言い切れません。社長自身もまた、さまざまな状況や関係性の中で、「これはやらなければならない」と感じ、動き始めた一人なのかもしれません。

つまり、

「自分が動かした」のでもなく、「誰かに動かされた」のでもない。

関係性や状況の中で、動きそのものが生まれてきた。

これが、中動態という視点から組織を見る面白さです。

「誰が悪いか」ではなく「なぜ、そうなったのか」

 この視点に立つと、組織の見え方が少し変わります。問題が起きたとき、私たちはつい「誰が悪かったのか」を探します。

メールの返信が遅い。会議で意見が出ない。部署間の連携が悪い。若手社員がすぐに辞めてしまう。こうした問題を、「あの人は責任感がない」「最近の若手は主体性がない」「管理職のマネジメント能力が低い」と、個人の問題にしてしまうのは簡単です。しかし、本当にそうでしょうか。

メールを返信しにくい業務フローになっているのかもしれない。会議で発言すると否定される経験が積み重なっているのかもしれない。部署同士が、お互いの仕事を知る機会そのものがないのかもしれない。若手が困ったときに「困っています」と言える関係ができていないのかもしれない。人の行動は、その人の性格や意思だけで決まるものではありません。

人と人との関係、職場の空気、仕組み、過去の経験、交わされている言葉。

そうしたものが複雑に絡み合いながら、私たちの行動を生み出しています。だから、「人を変えよう」とする前に、

「なぜ、この人がこう動いてしまう環境になっているのだろう」

と考えてみる。犯人を探すのではなく、動きを生み出している「場」を見る。それだけでも、組織の問題への向き合い方は大きく変わるはずです。

私たちの「当たり前」は、対話からつくられている

 もう一つ、私が興味を持っているのが「社会構成主義」という考え方です。

少し難しい言葉ですが、簡単に言えば、私たちが「現実」や「当たり前」だと思っているものの多くは、人と人との言葉や関係の中でつくられているという考え方です。

「うちの会社では、若手は黙って仕事を覚えるものだ」
「この部署とあの部署は仲が悪い」
「上司には反対意見を言わない方がいい」

こうしたものは、会社の規則に書いてあるわけではありません。それでも、日々交わされる言葉や態度、過去の経験によって、いつの間にか「この会社ではそういうものだ」という現実がつくられていきます。

だとすれば、逆のことも言えます。人と人との対話が変われば、「当たり前」も変わる可能性がある。言葉が変われば、相手の見え方が変わる。相手の見え方が変われば、関係が変わる。関係が変われば、行動が変わる。そして行動が変われば、組織そのものが少しずつ変わっていく。組織は、完成された「箱」ではありません。そこにいる人たちの関係によって、日々つくられ続けているものなのだと思います。

組織は「機械」ではなく「生命体」なのかもしれない

 ここまで考えてくると、私は会社というものを「機械」ではなく、「生命体」として捉えた方がしっくりくるように感じます。機械であれば、上から命令を入力すれば、決められた動きをします。しかし、人間の組織はそうはいきません。

一人が発した言葉に誰かが反応する。
その反応を見て、最初に発言した人の考えも変わる。
そこに別の人が加わり、新しいアイデアが生まれる。
最初に誰も想像していなかった方向へ話が進んでいく。

ジャズの即興演奏のように、お互いの音を聴きながら、自分の音も変わっていく。そこでは、「誰が指示したのか」「誰が従ったのか」という区別は、だんだん意味を持たなくなります。全員が互いに影響を与え、同時に影響を受けながら、一つの動きをつくっている。組織とは、本来そういうものなのかもしれません。

社内報は「人を動かす」ためのものなのか?

 この視点から考えると、社内報の役割も変わってきます。

 社内報は、会社から社員へ情報を伝えるだけのメディアではありません。ましてや、「社員の意識を変える」「社員を動かす」ためだけの道具でもない。たとえば、社内報で一人の社員を紹介する。それを読んだ人が、「この人、こんなことを考えていたんだ」と初めて知る。翌日、その人に声をかけてみる。そこから会話が始まる。仕事の相談をするようになる。やがて、部署を越えた協力が生まれる。

この一連の動きは、誰かが「交流しなさい」と命令したわけではありません。だからといって、完全に本人の意思だけで始まったとも言えません。社内報という小さな「きっかけ」が、人と人との間に置かれた。そこから関係が変わり、自然に新しい行動が生まれた。私は、ここに社内報の本当の可能性があるのではないかと思っています。

社内報は、人を直接動かすメディアではない。

人と人との間に、何かが起きるきっかけをつくるメディアである。

読む。
知る。
見方が変わる。
話したくなる。
対話が生まれる。
関係が変わる。

そして、行動が変わっていく。「行動を変えなさい」と命令しなくても、人が自然と動き始めることがあります。

「人を動かす社内報」から「動きが生まれる社内報」へ

 これからの組織づくりに必要なのは、「どうすれば人を動かせるか」という発想だけではないのかもしれません。

それよりも、
「どうすれば、人が自然と動き出す関係をつくれるのか」
「どうすれば、新しい対話が生まれる環境をつくれるのか」

という問いが大切になってくる。これは社内報も同じです。「社員を動かす社内報」をつくるのではなく、

「人が動き出す関係をつくる社内報」

そして、さらに言えば、

「組織の中に、動きが生まれる土壌をつくる社内報」

をつくる。人を直接変えようとするのではない。誰かを責めるのでもない。人と人との間に、新しい言葉、新しい視点、新しい対話のきっかけを置いていく。すると、そこから予想もしなかった会話や関係が生まれ、少しずつ組織が変わっていく。もしかすると、組織を変えるということは、誰かが強い力で動かすことではなく、そこにいる人たちが、互いに影響を与え、影響を受けながら、自然と新しい動きに「巻き込まれていく」ことなのかもしれません。

そして社内報は、その最初の小さな波を起こすことができる。私は、そんな社内報をつくっていきたいと思っています。

人を直接変えようとするのではない。誰かを思い通りに動かそうとするのでもない。

私たちにできるのは、人と人の間に、「言葉」を置いてゆくこと。

その言葉から、会話が生まれるかもしれない。
相手の見え方が変わるかもしれない。
新しい関係が生まれるかもしれない。

そして、そこから何かが動き始めるかもしれない。

社内報とは、そんな小さなきっかけを、組織の中に一つひとつ置いてゆく仕事なのだと思う。

無料オンライン相談実施中

社内報の発行をご検討されている方からの基本的な質問や情報収集、また、社内報以外にも、印刷物や制作物についてのご質問含め、社内発行物のあらゆるご相談に、経験豊富なスタッフが直接お答えいたします。お気兼ねなくご連絡ください。(画像をクリックして下さい。無料オンライン相談窓口のページが開きます。)